ホーム > 戸ノ口堰について
戸ノ口堰は、江戸時代初期の元和9年(1623年)に、原野を開墾することを目的として、猪苗代湖の水を会津地方に引くために郷士八田氏が起工した水路で、70年間にも亘る工事の末、元禄6年(1693年)に鶴ヶ城下まで開かれました。
その後、戸ノ口堰は度重なる災害に見舞われたために全体の改修工事が行われ、天保3年(1832年)には、会津藩士佐藤豊助の藩命により、戸ノ口堰のうち飯盛山の山腹役150m区間が延べ55,000人もの人夫の手でトンネル化されました。これにより会津の水田約2,500haに猪苗代の水が供されるようになりました。
この戸ノ口堰洞門(弁天洞門)は、慶応4年(1868年)に、戊辰戦争の戸ノ口原の戦いで新政府軍に敗れた白虎隊士中二番隊20名が鶴ヶ城に戻るため水に浸りながらこの洞門をくぐり抜けたことで有名で、洞門を抜けた後に飯盛山から城下町が炎上しているのを見た隊士達は鶴ヶ城が落城したと誤解して自刃し、1名を残して19名が帰らぬ人となりました。
現在、戸ノ口堰の水は農業以外にも生活用水や防火用水、発電等々に幅広く利用されており、会津地方における恩恵の水になっています。